3.11被災者としての”思い”

✏︎水俣から東京湾まで打瀬船で航海した緒方正人氏は、そのころの水俣の状況を「後腐れ」と表現しています。

✏︎被災地では復興予算に様々なレベルで「私利私欲」がまとわりつき、本当に求められているもの、求めるべきものが顧みられないままにムダが膨らみ続けてきました。

✏︎紐つきの復興予算にふりまわされ、自治を妨げられてきたことが、それを許した大きな要因です。

✏︎東日本大震災を経験したものの社会や子孫への責任として百年先、千年先のあるべき姿を見すえて自分たちの暮らしを考え、声をあげていくことが生き残った一人ひとりに求められています。

 

✏︎被災地は個人や団体・企業から様々な支援を受け、支えられてきました。

✏︎支援をすること、支援を受けることが自分自身と社会とのかかわりを考えるきっかけとなり、何かひとつ自分の楽しみや持駒を社会的貢献に結びつけて実践する人が増えていけば、もっともっと暮らしがいのある世の中になると思います。

✏︎サイレントマジョリティーが”ハチドリのひとしずく”で世の中を変える日がきっと・・・(祈)。

 

なぜか冬にツツジが・・・


✒️ 岩手日報「論壇」(2022.12.1)

 

東日本大震災の被災地は全国からの膨大な支援に支えられて復旧・復興に尽力してきた。復興期も終盤を迎えた今、受けた支援をどう引き継いでいくのかが被災地に暮らす私たちの新たな課題となっている。自分の持ち駒でできる地域社会への貢献として服薬相談を思いつき一昨年の秋から週1 回 2 時間ほどイーストピア宮古のフリースペースを借りて”薬/だれでもなんでも相談”と称し読書がてら座っている。2 年間の相談件数は数えるほどしかないが誰でも気軽に相談できる受け皿があることに意味がある、定年退職後の仕事にかわる“ひとりでもできる市民活動”として続けていきたいと思うようになり見えてきたことがある。

 

日本は国税調査が始まった 100 年前と比べ平均寿命が 2 倍に延び人類が経験したことのない長寿社会となった。昨年公表された岩手県の高齢化率は 34.3%で 3 人に 1人が 65 歳以上の高齢者となっている。幸福の追求を理念に掲げた“いわて県民計画”は高齢者「経験や知識・技能を生かした社会貢献活動や学びを提供する側として生涯学習活動への参加、市民活動や県民活動への参画」を求め社会参加を促している。高齢者は単なる福祉の対象ではない。高齢化社会の一翼を担う存在となるべきであり、若者に自分たちの負担を押しつけない社会をつくっていく責任がある。社会参加で人と人とのふれあいが生まれればそれ自体が心のケア、命のセーフティーネットになる。認知症の予防や生活習慣病の改善が期待でき、健康寿命が延びれば医療費の削減にもなる。


市民活動には政治的なものから福祉、環境、文化、スポーツなど多種多様なものがある。公平・平等が求められる行政では対応が難しい地域の問題にも前例に縛られない発想で取り組むことができ、実践のなかで課題を深化させ解決方法を探っていけるのが市民活動の強みであり面白さでもある。市民活動が活発な地域は犯罪率、失業率が低く出生率の高いことが分かっている。少子高齢化、若者流出などによる人口減少や生活様式の変化に伴い地域が培ってきた相互扶助を維持することが難しくなり地方自治体の負担が増大している。地域の枠を越えた様々な市民活動と協働していかに負担を軽減していけるかが持続可能な高齢化社会を築いていくための胆となる。市民活動の情報を収集して社会貢献の選択肢を公開し市民が集い相談しあえる場を市町村レベルの公助として備えていくことを提案する。

✒️ 岩手日報「論壇」(2016.3.29)

 

東日本大震災から5年が経ち、様々な切り口で大掛かりな報道が行われている。当時の映像を眺めながら、自分の中で3.11が過去になっていないことに改めて考えさせられた。長年にわたって積み上げられてきた地域生活の全てが「瓦礫」となり多くの命が奪われたありさまに、観念し自失することで自分を守り、片隅に追いやった悲嘆、喪失感を反芻できないでいる。自分のなかに止まったままの「時計」があり、今と過去がつながっていない。そのせいだろうか、自宅のあった場所に立つと、あの日の朝までの光景が浮かび、また住んでも良いかなと、ふと思ってしまう。

 

  災害公営住宅の建設と高台の造成が進み、各地で「復興」の形が見えてきたが、亡くなった人達の声に耳をかたむけた復興となっているのだろうか?あのとき、津波の来るところに住み多くの命が奪われた責任を誰もが認め、同じことを繰り返してはならないと心に刻んでいた。先人たちも同じように思ってきたはずなのに、なぜ繰り返されてきたのか? あるべき姿、求めるべき将来像を明確にできない市町村は、机上の計画通りにケリをつけたい国や県を説得できず、「万里の長城」と称されていた田老地域の堤防が災害弱者を守れなかったことを教訓とするどころか、次善の策であるはずの「減災」「多重防災」という言葉に絡めとられ、防潮堤を前提とした大規模な復旧を行っている。 先細りだった地域経済は顧みられず、与えられた紐つきの「復興」で不相応なハコモノが見事に復旧している。

 

 たかだか一世代前の教訓が風化し「想定外」になってしまった事実に今度こそ学び、「てんでんこ」を災害弱者に強要しない地域づくりを目指していくはずではなかったのか・・・。それを全国の沿岸自治体に還元し、受けた支援に答えていくものと思っていた。

行政規模を維持しようとしたことが多くのムダを生み、自立の選択肢を限られたものにされた被災者の多くは、ただ支援を受けお膳立てを待つだけの存在にされている。次の災害で支援する側にまわり、受けた支援をつないでいくためにも、主体性を取り戻して浸水区域外で暮らす選択をして欲しい。亡くなった命と後世への責任が被災者それぞれの生き方に問われている。

 

<補足>

導入部分を実体験のない人に伝えることは難しいのかもしれませんが、その自覚がないままの取材や報道が多くの被災者を無口にさせてきました。

 以下の一文は削除されていました。

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月命日には警察による捜索活動と、それを望む家族の声がテレビで坦々と報道されてきた。死に逝くなかでの別れの声に耳をかたむけ、死を受け入れようとしている遺族を助けられなかった後悔へ引き戻してしまうことへの配慮に欠け、別れの声に耳をかたむけることができないまま遺体を捜し求める家族の辛さを助長していることへの自覚に欠けていると思う。

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死の間際には感覚神経などの機能低下、脳内麻薬の放出や脳内報酬系の働きにより痛みや苦痛から解放され、死を受け入れ、さようならを言って逝くと思うことができれば「さようなら」と応えることのできる遺族もいると思うのですが・・・。求めるべきは防潮堤を必要としない暮らしです。浸水予想区域に新たな新たに建てないとりきめができれば、すでに築かれてしまった薄っぺらな防潮堤が耐用年数をむかえるころには災害弱者が逃げる必要のない暮らしを形づくっていけるはず。命を経済性や利便性と引き換えにしてはならないことを学んだ被災地には、先例となって世の中に働きかけていく責任があります。また、自分たちの世代でやり直しがきかず、未来の命にも影響を与える原発事故は、津波による被害とは次元の異なる深刻な人災であり、想定すべきことを「想定外」にして、被害を大きくした被災地こそが声を上げていかなければならないと思います。

 

岸壁の奥が宮古市役所、橋の向こうにうっすら見えるのが早池峰山、震災後も変わらない癒しの風景です。
岸壁の奥が宮古市役所、橋の向こうにうっすら見えるのが早池峰山、震災後も変わらない癒しの風景です。

✒️ 岩手日報「論壇」(2015.10.24)

 

31年前の三鉄開通は住民の悲願であったが、沿線の小さな商店街は売り上げを落とし、車道の整備と自家用車の普及に追い討ちされてシャッター通りと化した。郊外に大型スーパーが進出し、バイパスに大手チェーン店が林立すると大きな商店街にも賑わいが消え、櫛の歯が欠けるように営業をあきらめる店舗が増えている。地域の産業が分散化し、通勤時間帯の幹線道路が運転手だけの車で埋まるようになると、開業から黒字の続いていた三鉄も10年目に赤字へ転じている。三鉄は様々なイベントを仕掛けて集客を図っているが、震災見学や景勝地の観光を目的とした乗客は減少が見込まれている。地元利用客の大半が通学の高校生と車を運転しない高齢者という状況で、沿線自治体の負担に見合うものを得ることは今後も難しく、路線バスの活用に分があると言えよう。鉄道が廃線となって栄えたところは無いといわれるが、三鉄の赤字と地域経済の衰退はどちらが先といったものではなく、地域社会が「車社会」へ移行してきたことが主な要因と考える。

 

震災からの復興が国や県の後押しで進められているが、先細りだった地域経済の単なる「復旧」は、過去にばら撒かれたハコモノと同様に、震災後の様々な支援に感謝し、支援を受ける側の責 任を自覚していれば辞退すべきムダである。地域の経済的な循環をとり戻すための再構築でなくてはならない。

 

車に依存せざるをえない震災後の状況は、自立していた高齢者を社会的弱者に追い込んでいる。三鉄の駅を国土交通省が限界集落対策として推奨する「小さな拠点」に据え、上を集合住宅にした多目的施設の併設を提案したい。環境負荷が少なく高齢者の移動に適した鉄道で「小さな拠点」が結ばれれば、利用率が上がり増収も期待できる。市町村の中心となる駅には無料の大駐車場と誰でも集い、くつろげる工夫をした広場を設けて市場と商店街、飲食店街を隣接させ、医療機関と図書館や体育館などの公共サービスを集約していけば、人の流れをつくることができ、地域経済の活気をとり戻していける のではないか。

 

また三陸復興道路の開通により景勝地を眺めて素通りする観光客の増加が懸念されているが、世界三大漁場の港町を結ぶ三鉄と地域性豊かな地産地消の暮らしは、観光客を立ち止まらせ再訪につなげる大きな魅力となるだろう。三鉄は車の普及で域外資本に絡めとられてきた、地域の経済的循環をとり戻すための要とすべきインフラである。

 

水門だけが残された田老地区の第二防潮堤。左奥の古い防潮堤には構造的な被害がありませんでした。
水門だけが残された田老地区の第二防潮堤。左奥の古い防潮堤には構造的な被害がありませんでした。

✒️ 岩手日報「論壇」(2013.11.2)

 

3.11の大津波で自宅を流された後、知人宅で3ヶ月ほどお世話になってから丸2年仮設住宅で暮らし、今年の6月に海が見える高台に自宅を建てて引っ越した。宮古市からの助成金を活用したことをきっかけに被災者としての社会的責任について考えている。

 

一つは自分達が受けた支援を将来にわたって無駄にしてはならないということである。国の方針としての「復興」が、あまりにも多くの無駄を生んだ。震災後の状況を踏まえた再構築こそが必要であることを知るはずの自治体が「復興財源」の浪費に加担せざるを得ない状況ができてしまい、尊い犠牲者に見合うものかどうかの問い直しがないまま「復興」の旗のもと利便性、経済性を盾に、また同じことが繰り返されようとしている。震災記憶の風化は避けられないことを再認識する必要がある。自然災害に対し、堤防や土地のかさ上げなど、人工的手段によって子孫を同じ目に遭わせてしまう可能性を温存させないことが後世への責任であることを肝に命じ、津波のこないところに住む選択をしなければならない。住居さえ流されなければ、次は支援する側に回ることができる。

 

二つ目は支援を繋ぐ責任である。災害に関わらず被災者それぞれの関わりの中で必要と思われるところへ引き継いでいくことが求められる。自分の持ち駒で楽しみながら続けていくことで、支援の連鎖が生まれることを期待したい。

 

三つ目は、まれな災害を体験した者の責任である。自分たちの経験では想像できない災害、事故に対してあらゆる可能性を「想定外」とせず、史実から学び、備えておくことが必要であることを伝えていかなければならない。また、巨大地震や津波による災害は立て直していくことができても原発事故は、その恩恵を享受するわれわれの世代を超えて深刻な影響を子孫に与え続けるという意味で、より深刻な問題である。いまだに「想定外」が続いている原発を容認するようなエゴは被災体験者として許してはならない。