シーカヤック愛好者としての”思い”


✒️ イーストピア1階「市長への手紙」箱への投書 2021.12.11

 

岩手日報(2021.12.7)の「論壇」に掲載された論考をデスマス調に書き換えて投函

 

海岸漂着物の回収処分について

 

宮古シーカヤック協会は宮古湾の奥行きのある地形と 1999 年に県営マリーナとして 整備されたリアスハーバー宮古という全国的にも恵まれた環境をいかしてシーカヤッ クに興味のある人の受け皿となり、子供会や小中学校の野外体験にも市民活動として積極的に関わっています。会員有志のツーリングでは岩場の景観を楽しみながら、凪いでいればどこにでも上陸できるシーカヤックならではの環境活動として浜に打ち上げられた漂着ゴミを回収しています。

 

日本の海洋ゴミの 7 割は内陸で捨てられたり放置されたものが川から流れ出たものだと分かっていますが、浜にはペットボトルや発泡スチロールのような軽いものだけでなくありとあらゆる生活品が打ち上げられ中国語やハングル文字が表記されたものも混在しています。地形によっては積み重なって層になっているところや、大雨の後に打ち上げられたゴミのベルトが一夜にしてなくなっていることもあります。

 

プラスチ ックはマイクロ化する前に回収していかなければ生態系に後戻りできない負荷を押しつけてしまうため「浜は海洋ゴミの浄化装置、回収して完結」をモットーに少しずつ 持ち帰り、リアスハーバー宮古や宮古市の「きれいなまち推進室」にお願いして処分 してもらっています。漁業由来の網、ロープ、浮玉、トロ箱などは漁協に引きとってもらうことになっていますが、塩分を含んだものは焼却炉の寿命を短くしてダイオキシンなどの有害物質を生じるため処理費用がかさみ、どこから流れて来たかも分からないゴミを集めて市の税金や漁協の組合費が使われてしまうことに心苦しさと腑に落ちないものを感じてきました。

 

岩手県は海岸漂着物処理推進法に基づき 2019 年に「岩手県海岸漂着物対策推進地域 計画」をまとめて、市町村と海岸管理者である県知事の役割分担を明確にしています。大船渡市では昨年から計画推進の財政処置である環境省の海岸漂着物等地域対策推進事業をつかって漁港 10 か所にコンテナを設置し漁業者から回収してもらった漂 流ゴミや海底ゴミを集約処分しており、市や漁協の経済的な負担をなくしています。

 

海洋プラスチック問題は業界主導の 3R(削減、再利用、再生)だけで解決するものではなく、日常的に捨てられているゴミは日常的に回収していかなければ減らすこと はできません。推進事業を活用して、地域で拾い集められた漂着ゴミの処分方法を検 討していただくことはできないでしょうか? 

 

景勝地や海水浴場などの清掃イベントでゴミ問題に関心をもった市民が気軽に漂着ゴミを拾える仕組みがあれば、それ自体 が地域社会への啓発、子供たちへの教育となり、捨てる人を減らして海洋ゴミを元から断っていく好循環が期待できます。‵‵宮古方式′′の検討をお願いいたします。

 

文責 宮古シーカヤック協会:加藤 昭一

 

✒️ 日本カヌー連盟シーカヤック指導員検定資格(JRCAイグザミナー)申請時の”課題作文” 2021.10.12

 

シーカヤックの可能性を再考する

 

[起]はじめに

3.11 被災地は全国から膨大な支援を受け、物と心の両面で支えられてきました。「復興期」も終盤を迎えた今、支援をどう引き継いでいくのかが被災地に暮らす私たちの新たな 課題となっています。「万里の長城」とも称された旧田老町の防潮堤のそばで自宅を流され、仮設住宅で2年暮らしたあと海が見える・歩いていける・津波が来ない高台を探して浄土ヶ浜の北にある日出島漁港の近くに家を再建しました。国からの義援金や宮古市の助成金を利用したことをきっかけに、3.11で生き残った責任と被災直後から様々な形で受けてきた支援をつないでいく責任を考えるようになりました。

 

自分の持ち駒で気負わずにできる社会的貢献として、タンデムシーカヤックで地元の人に地元の海を見て・感じてもらうことを思いつき、日出島パドリングクラブ(https://taronokato.jimdofree.comを立ち上げて「里海散策」と称し案内をしています。自分たちの暮らしのそばに有史前から続く別世界があること、3.11の津波で壊されたのは人がつくったもの/人の手が加えられたところであり、人工物に囲まれた生活が被害を大きくしたこと、その後の「復興」が多くのムダを生みながら培ってきたものを壊し、益々暮らしと海が隔てられてしまったことを海側から見てもらい、自然のなかの一員でしかない人間が自然に対峙する/自然を「保護」するというおこがましさ(危うさ)を考えるきっかけにしてもらいたいと思っています。

 

[承]誰もが気軽に楽しめる環境を

海の体験イベントや日出島パドリングクラブのような活動でシーカヤックに興味をもった人が気軽にパドリングを楽しめる環境が必要と考え、地元で同好会的な活動をしていた宮古シーカヤック協会(https://miyakoseakayakkyokai.jimdofree.com)に積極的に関わるようになりました。宮古湾の北にひらいた長い地形と 1999年に県営マリーナとして整備されたリアスハーバ ーのレスキュー態勢という恵まれた環境を生かして4年前から週1回の「無料体験」及びもっとやってみたい参加者の受け皿として「基本教室」を開催しています。

 

命のリスクをゼロにできない海をフィールドとするシーカヤックの普及を図っていくためには海域を限定した上で、誰もが安全にパドリングを楽しめるバックアップの仕組みを作っておくことが大前提となります。安全管理の落としどころを探りながら、基本教室を修了した会員が シーカヤックと装備一式を自由に使える体制を整えてから少しずつ会員が増えており、まだまだ潜在的需要はあると感じています。また、リアスハーバーで開催される地域子供会、小中学校や障がい者団体などを対象としたカヤック体験のインストラクターも請け負 っており、日本カヌー連盟の指導員資格は大きなお墨付きになっています。

3.11 被災地では三陸ジオパークと潮風トレイルを後押しに体験型の観光が模索されシーカヤックを取り入れるところもポツポツでてきていますが、その先の受け皿は限られています。

 

宮古シーカヤック協会では「安全で楽しいカヌーの普及をはかるため指導者による技術の伝達や安全に対する啓蒙(啓発?)活動」という日本レクレーショナルカヌー協会(JRCA)の趣旨を市民活動として実践し、シーカヤックのさらなる魅力に気づいた会員が「業者」へステップアップする流れをつくっていきたいと考えています。

 

[転]安全にステップアップしてもらうには

始めてシーカヤックに出会った30数年前には沢山のアウトドア雑誌が書店にならびシーカヤックも表紙を飾っていました。日本のシーカヤックブームに火をつけたエコマリン東京の撤退後、だんだんと大手商社も手をひき輸入元がころころ変わるようになると、あれだけの流行りが尻すぼみとなり、全国で開催されていたレースもシーカヤック愛好者の高齢化とともに年々減っています。

 

当時シーカヤックにはまったものとして、ここまで「尻すぼみ」になるとは想像もできませんでした。ブームが根づかなかった要因として、シー カヤックやパドルと装備一式を個人で所有するには費用負担が大きく、置き場所の確保や積載できる長さの車が必要であることもありますが、興味をもった人の受け皿が業者や愛好者との個人的な付き合いという限られたものだったことがあげられます。レベルにばらつきのある自称インストラクターも少なくないなかでスタンドアップパドルでも代用できるようなレジャーにとどめたまま顧客が囲い込まれていたという面にも向き合っておく必要があります。

 

JRCA が採用しているテキスト「シーカヤック教書」にはレクレーションを越えたシーカ ヤック本来の魅力が盛り込まれています。

インストラクターの技能の底上げと標準化を図 ろうとして1988年に設立された日本セーフティンカヌー協会(JSCA)の「SRP」は グループでの行動を推奨するにとどまり単独行ならではの楽しみまでは言及されていません。あっという間に状況が変わる海を技術と知識だけで漕げないのは自明ですが、JRCA・JSCA の指導員検定が海に対する経験と判断力を加味したものではないところに限界があり、インストラクターの力量によって提供できるサービスにはかなりの幅があると思われます。

 

シーカヤックに興味をもった誰もが気軽にパドリングを楽しめる宮古シーカヤック協会のような市民活動の選択肢を増やして間口を広げ→業者(JRCA、JSCA)→プロガイドと いう逆ピラミッド型の棲み分けと安全に経験を積み上げてステップアップしてもらう流れ (システム)を業界全体で考えていくことを提案します。

 

[結]ピラミッドを大きくしていくために

シーカヤックは長年かけて人それぞれ様々に楽しまれるようになり、利用されています。

 

・レジャーやレクレーションとして海辺の景色を水面から眺めながらのパドリング

・キャンプ道具一式を積み込んで四季折々の非日常を楽しむツーリング

・自由に穴場を探れるカヤックフィッシング

・水の負荷をつかったフィットネスやスポーツとしてパドリング

・シーカヤック、パドルと一体となり風や波との一期一会の瞬間を体感する楽しみ

・思い思いの艇で参加し海況の変化により艇の不利・有利が逆転する海ならではのレース の醍醐味

・子供会の行事や学校の課外授業などで海の生態系に親しんでもらう道具として

・どこでも上陸できるシーカヤックならではの環境活動

 

などなど・・・この多様性にシーカヤックの可能性があります。

 

「里海散策」の活動は眺めるだけで素通りしていた浜に上がる機会となり、海ごみの深刻な実態が見えてきました。

東シナ海や日本海に面した沿岸には国内外からゴミが流れつき各地で様々な取り組みが行われていますが三陸の海も例外ではありません。

地形によって差はありますが、道のついていない浜には手つかずの漂着ゴミが積み重なり中国語やハン グル語の書いたものも混在しています。いちばん実態を知ることができるシーカヤッカーとして、その日遊んだ分だけでもと少しずつ持ち帰っているうちに、仕方のない光景として目をそらしてきたストレスから解放されることを「発見」しました。やり始めはけげんそうに眺めていた浜の漁師とも挨拶をかわせるようになり、だんだんと片付いてくるので今では楽しみになっています。大雨や海が大荒れになるといちからやり直しですが「浜は海ごみの浄化装置、回収してなんぼー(完結)」をモットーに定年後の市民活動として続 けていきたいと考えています。

 

イベントではなくいつもの楽しみついでに、協調性のないシーカヤッカーでもひとりでできるのがポイントであり、凪が良ければどこでも上陸できるシーカヤックならではの環境活動として広めていくことができれば環境問題や社会活動に関心のある層を巻きこんでピラミッドを大きくしていけるのではないかと期待しています。

 

経済のグローバル化と効率優先の金太郎アメのような消費社会にとりこまれて自然との関りが減り、日々の生活に追われるなかで島国に住んでいるという認識すらも薄れている「現代」にあって、命の危険を内包する海に身をさらし、人工物に囲まれた暮らしで鈍ってしまった自然との間合い/動物としての感覚を取り戻すことができるのは他のアクティビティーにはないシーカヤックならではの魅力といえます。

 

海の変化を察知し自身の技術を秤にかけて行動する心構えがあれば初心者からベテランまで自分の力量に応じた「冒険」ができます。日本はそのゲレンデに囲まれています。生まれ育った地元のシーカヤックの可能性に目を向けてJRCA指導員になろうとする北東北の人達に、シーカヤック歴相応に怖い思いをしてきた経験を生かして海の危険と安全にステップアップしていく必要性を伝えながら、シーカヤックの可能性を一緒に求めていきたいと考えています。

 

<シーカヤック歴> *「怖い思い」の根拠と資格取得のための売り込みですのでので差し引いて御読みください('@')

■30 数年前に飲み仲間からフジタカヌーのファルトを譲られたのをきっかけに閉伊川で旧新里村が行っていたカヌー教室に参加

■そのころ行きつけだった(今でも)焼鳥屋店主の大学時代の後輩 G 氏が関東からシーカヤック2艇を車載して遊びに来たさいに手ほどきを受け強くひかれる。

■その後、中古艇があると連絡をもらい神奈川県三浦まで引き取りに行きシーカヤックをオシャレに楽しんでいる人達がいることを知る。

■とにかく体で覚えようと週末に田老漁港から浮かべて宮古までの外海 10Km ほどを漕ぐようになり海のパドリングにはまる

■当時は海上から携帯電話の通じるところが限られており、誰か仲間がいればと思いながら怖々と海にで ていたが次第にその怖さから刻々と変化する海況を察知し、どこに逃げるか考えながら五感が研ぎ澄まさ れる感覚を求めるようになる。

■日が長くなり海が落ちつく梅雨明けから年数回、早起きして田老から北の久慈や南の釜石まで 40~ 50Km 漕ぎながら怖い思いをしてさらに海のパドリングにはまる。(最長は釜石から松島/3 日)

■2004年に新谷暁生氏とケープホーンを漕破した月尾嘉男氏が企画した海旅(年数日ずつ数年かけて久慈から気仙沼まで)に地元カヤッカーとして同行

■宮古シーカヤックマラソンに参加したのをきっかけに各地のレースに参加するようになりサーフスキーと出会う

■2005年4月末、浄土ヶ浜から出てきた観光船をさけて位置を確かめようと振り返ったところで横風にあおられて落ち、サーフスキーを離して通りかかったサッパに拾い上げられる。 *Kayak~海を旅する 本 Vol9 ”命からがら”で報告

■その年に伊豆松崎シーカヤックマラソンでまさかの優勝

■今では見る影もないが、その頃のレースの最高成績は対馬シーカヤックマラソン2位、丹沢カヌーマラソン総合2位、千葉県知事杯レース総合6位、三陸シーカヤックマラソンin宮古1位、小川原湖カヌー マラソン1位、カナカイカイカ in 葉山サーフスキー1位

■3.11で「宮古シーカヤックマラソン in 宮古」がツーリングに変更となったため、地元有志で代替レー ス「宮古シーカヤックマラソン byond3.11」を開催

■2013 年、日出島漁港の高台に自宅を再建

■日出島パドリングクラブを立ち上げて地元の人に地元の海を知ってもらう活動を始める

■宮古シーカヤック協会の会長に手を挙げて体験教室、基本講習の体制をつくる *2017〜2018

■2018 年、JRCA マスター取得

■近隣市町村のシーカヤック関係者に働きかけて「カヤックで海にでようとする皆さんへ」と題した心得を作成   *「ウラ」参照

■宮古シーカヤック協会のさらなる可能性をもとめて会長に再任  *2021〜2022年

■日出島パドリングクラブの“里海散策”、土曜日は朝練がてら漂着ゴミ回収、日曜日は宮古シーカヤッ ク協会の体験教室および基本教室を担当し活動中

 

✒️  Kayak vol43(2014.2.1 

 

3.11現地報告

 

前号で宮古市の現状を編集長が当方の言葉も交えて取り上げていますが、編集長に伝えきれなかったことを含め、被災当事者の立場から補足させていただきます。

 

生まれ育った田老地域は宮古市街から10Kmほど北に位置し、湾が太平洋側に開けているため三陸海岸の中でも特に津波による大きな被害を受けてきました。昭和三陸津波(1933年)で壊滅的な被害を受けた翌年から24年の歳月をかけて市街地を囲む防潮堤を完成させ、1960年のチリ地震津波の後には海にそって更に増設し津波に備えていました。市街地を要塞のように囲む防潮堤は「万里の長城」とも云われ海外からも視察があったようですが、今回の津波でまた壊滅的な被害を受けてしまいました。

 

地震当日は職場内の対応に追われ、一段落した深夜に山道を抜けて自宅の様子を見に戻ろうとしましたが、街に入る手前で津波が川を遡上し残していったガレキと泥に道を塞がれ、状況のわからないまま引き返しました。余震が続くなか物音しない寒々とした暗闇の向こうに延焼を食い止められた山火事の残り火がところどころ赤々と浮かんでいました。翌日、三陸鉄道の線路伝いに街へ入ると、国道45号線と並行する旧防潮堤の外側は、もうひとつ海側の新しい防潮堤とともに家々が一掃されて北側の山腹に押し付けられ、内側の街並みは消失し一面がガレキで埋め尽くされていました。すれ違う人は自分同様に目の前に広がる光景をどう理解していいか分からないまま放心し、家族、知人が生きていることだけを願い、安否を確認し合っていました。

 

地震直後の防災無線から聞こえた津波の高さに惑わされて逃げ遅れた人、一度は避難しながら貴重品や防寒具などを取りに戻ったまま行方の分からなくなった人、自力で避難できない身内を残して逃げられず流されてしまった人がいたことを知り、コンクリートの張りぼてに目隠しされたまま津波というものに対する想像力を欠如させて暮らしていた自分達こそが加害者であり人災でもあったのだと思い悔みました。

 

かろうじて被害を免れ避難所となっている小学校へまわると、体育館にはすでに避難している人の名簿が貼られ、通信と交通が途絶えた中で人それぞれができることを分担していました。津波で一瞬に生活の全てを失った共有体験からか、代々培われてきたしがらみや「家柄」などの関係が取り払われ、その意外な活気に人が生きていく上で必要なものはそれほど多くはないこと、それほど必要ではないもののために本当に必要なことをないがしろにしていたのだと感じることができたのは貴重な体験でした。

 

津波後の今を体感できるのは今しかないと気持ちを奮い立たせて漕ぎ始めたのは5月の連休明けだったと思います。関東の知人が被災地で役立てて欲しいと置いて行ってくれたポリエチレン製のシーカヤックで田老漁港から漕ぎ出し、宮古湾の奥まで南下しながらひとつひとつ浜に上陸してみました。

 

浜は漂流したガレキや漁船の残骸などで埋め尽くされていて足の踏み場もなく手つかずの状態のようでしたが遺体は確認できず、動物の死骸などもまったく見られなかったことから、浮力の少ない遺体は引き波とともに太平洋へ抜け、海流に乗りながら海の一部になっていったのだろうと思い、祈りながら漕ぎました。

 

今でも暦上の節目に警察による遺体捜索が行われ、その様子とあわせて身内の死を諦めきれずに手がかりを探し続けてきたという家族のことが報道されますが、死を自然によるものとして受け入れることで心を保とうとしている遺族を、悔やみきれない当時の心境に引き戻していることへの配慮に欠け、その自覚もないまま撮りたいものだけを取材して報道するマスコミには怒りを覚えます。

 

海にそそぐ沢沿いの樹木がなぎ倒され表土も流されてはいましたが地形に変化はなく、コンクリート製の人工物がことごとく壊されているのと対象的でした。海辺の岩場もそのままで海底には何事もなかったように海藻の残っている場所がところどころにあり、

重茂半島突端にある神社下の砂利浜に唯一何も打ち上げられていなかったのは今でも不思議な光景です。

 

大津波を体験した祖先達が犠牲となった命を無駄にしてはならないと、「これより下に家を建てるな」という碑を津波の到達点に立て、その度に戒めとしてきたのに、なぜまた同じところに住み同じ過ちを繰り返してしまったのか、なぜあの光景を自分のこととして想定できていなかったのか・・・。

 

同郷で自宅を流された宮古市長が、当初の住民説明会で「津波が来たのではなく津波の来るところに住んでいた」という先人の言葉を引き合いに出しながら「津波という自然現象に対して防潮堤をどこまで高くしてもきりがない」と同席した市職員とは違う自らの語り口で訴えているのを聞き、もう同じことを繰り返してはならないという覚悟が伝わってきて地元の先行きに期待し希望を持ちましたが、国が津波で被災したところを一律に防潮堤で囲むというという方針を出したときをから、その何故かを不問にしたまま変節してしまいました。

 

宮古市から地域の代表として選ばれた住民が半年かけて話し合い、全戸高台移転を18:2で可決し提言しましたが、市はどのような街づくりをするべきかという展望を欠いた個人的な希望を聞いただけのコンサルタント会社によるアンケート結果を盾に、新たに造成する高台だけでなく旧防潮堤内の一部をかさ上げして住めることにしてしまいました。

 

当初は国の方針にそって防潮堤をかさ上げするために人を住まわせておく必要があるのではと本気で疑ったりもしましたが、昨年末に山田町の船越半島小谷鳥で数人の地権者のために生物学的に貴重な湿地を埋め立てて防潮堤が新設されようとしていること、宮城県浦戸の無人島では被害を受けた防潮堤が休耕田のために20億円の費用をかけて再建されようとしていることが報道され、そのような理由も必要ないままに公共事業として進められていたことが判明し唖然としています。

 

自分達が地殻の変動と水の循環が創り上げた地形の中で暮らしているということ、縄文時代の遺跡が津波の到達点より下では出土していないという史実、先人が残した記録や戒めの碑に学び、想定外の可能性も考えて津波の来ないところに住む選択をすることが何よりも先決であることを学んだはずの自治体が、巨大防潮堤では人命を守りきれないことを国に訴えるどころかその政策に加担し、被災自治体としての経験を生かせなかった責任は次の大津波で後世に問われることになると思います。

 

長い年月と巨額をかけ「万里の長城」とも呼称されていた防潮堤こそ負の震災遺構としてそのまま残し、かさ上げ費用等をかろうじて津波を免れた家の移転費用あてることができれば産業施設が被害を受けても集中して復興に取り組めることを、被災経験と民意を盾にして国へとことん訴えるべきでした。

 

先細りだった地域経済が震災によりさらに加速されてしまった現状を踏まえ、車を必要としない「コンパクトシティー」で経済的自立を目指すことに市長が指導力を発揮できなかったことが悔やまれます。

 

早々に各論に入り、生活圏を丸ごと失ったからこそできる街づくりに内外の英知を結集すれば本当の意味での災害復興モデルとして社会に貢献できたと思うのですが、地元の暮らしを知らないコンサルタント会社に依存し、月日を重ねるごとに様々な利害が絡むようになっている状況がそれを難しくしています。このままただの団地化が進めば、次の世代で都市近郊のゴースト化した団地と同じ問題をかかえることは必然でしょう。

 

いま被災地では「復旧」であれば国や県からの予算がつくからと旧自民党時代のハコモノが費用対効果の検証もないまま再建されています。震災後に受けてきた多方面からの多大な支援に本当に感謝しているなら支援の無駄を最小限にする努力が求められ、今後さらに支援が必要となるフクシマのためにも必要性の低いものは辞退すべきだと思います。

 

また、人間が創り上げたものは自然に対し想定外を内包せざるを得ないことを身をもって学んだ被災地が、フクシマへどのように関わろうとしているのかが未だに見えてきません。

 

巨大地震や津波による被害は自分達の世代でやり直しがききますが、もっと確率が高い原発事故は、その恩恵を享受する世代を越えて割に合わない深刻な影響を子孫に与え続けるという意味においてより深刻であり、あのような事故が本当に「想定外」であったとしたら、もはや運転再開は許容されるべきではないと思います。

 

また、事故の可能性を無視し対策を怠り稼働させていたとすれば子孫に渡る犯罪として現行法の枠を超えて国、原燃、電力会社の責任が問われるべきであり、被災地こそが声を上げていかなければないと思います。

 

日本列島の海岸はどこにでも津波が押し寄せる可能性があり、海をフィールドとしているパドラーは常にその確率的な可能性の中で漕いでいることになりますが、命に関わる危険は、ひとたび海へ漕ぎだせば日常的に存在している訳で一人ひとりが「船長」として周りの変化を察知しながら、あらゆる可能性を想定外とせず自分の力量を越える前にいかに回避するかがより重要であり、津波の危険はそのひとつに過ぎないということを改めて考えさせられました。

 

そして、人工物に囲まれて暮らし自然に対する動物としての感覚を変質させてしまった自分達が、身近な海で「日常的な危険」に身をさらし自然を体感できることこそが他にはないシーカヤックの大きな魅力なのだということも。

 

追記:

三陸唯一のシーカヤック専門店として釜石市で長年営業を続けてきた「メサ」が仮設店舗で踏ん張りながら被災地の海をガイドしています。地元にシーカヤックを広めていく拠点として今後も必要とされているプロショップですので、被災地に関心のある方はツーリング参加での支援をお願いします。

 http://www.mesasanriku.com/mesa.html

また、キャンプツーリングを楽しめるようになるまで、昨年引っ越しを終えたわが家の一室を提供しています。あわせてご利用ください(要寝袋&マット)。

        *「週間金曜日」に投書し2011年、2012年の二度にわたり掲載された文章に加筆 

やがてひとりになり小さな影となって消えていくときが・・・                                写真提供:レインドック 

✒️ Kayak vol09(2005年夏号)

 

実践ディープコラム 「命からがら」第11話

 

4月28日、岩手県宮古市の浄土ヶ浜付近で艇を流出し救助されるという経験をしたので報告します。

 

[経過]

晴れ、宮古湾の海水温9℃、北西風強く、出先から車で戻った連れ合いが横風で煽られたと言うので、自宅から2Kmほどの高台にある旧国民宿舎わきの駐車場へ沿岸の様子を見にいく。樹木が大きく波打っているわりには白波がまばらで沖合も穏やか。南向かいの佐賀部付近にはサッパ(船外機付き小型漁船)一艘がコンブの養殖棚にとりついてカレイ釣りをしている。

 

とりあえずどこかで焦げるだろうと艇を車載し20分後に戻ってもう一度眺めたが海峡に変化がなかったので、田老漁港から10Kmほど南の浄土ヶ浜をめざすことににし出艇準備をする。入稿してきた漁師が「風が強く止めたほうがいい」と言ってくれたが、「様子を見て戻る」と答えて9時15分過ぎに単独サーフスキーで漕ぎ出す。

 

佐賀部の手前で釣りを止めてきたらしいサッパ2艘とすれ違ったので状況が変わったのを予想したが、風向きに変化はなく、ダメなら風裏に入って樫内漁港であがろうと考えて漕ぎ進む。樫内を過ぎると風が西寄りに変わり、姉ヶ崎との中間地点あたりから白波となっているのが見えたが、今年の初めに同じ艇で経験した状況と同等と判断し、そのままショートカットして岬をめざす。

 

途中から波高1mほどの一面白波。も横から西風と波を受けてバランスをとりながら漕ぐのがやっとの状況となったが、風上の中の浜キャンプ場までは、そこかあ岬までの数倍の距離があり、もっと風の強い状況はサーフスキーで経験がなかったことからフェリーグライドで岬の沖合にある岩礁をめざし、ブレースを繰り返しながら10時10分過ぎになんとか姉ヶ崎を回り込む。

 

風裏に入ってからは時折り吹き下ろす南および西からの突風をやり過ごしながら日出島の西側を抜け、岸沿いに漕ぎ進む。浄土ヶ浜北側でも姉ヶ崎同様、西風が吹き抜けていたが半島が小さぶん波は小さく、途中すれ違ったサッパの漁師が風に顔をそむけながらも大丈夫かと声をかけてくれたので大きくうなずいて合図した。

 

サーフィン状態を楽しみながら岬に沿っていき、突端を回り込んだところで観光船の汽笛が聞こえてくる。針路を避けるためにいったん東側の重茂半島へ向かい、岸から40~50m離れたところで観光船の位置を確認しようと振り返ったところで南西からの突風と風波で風下側にひっくり返る。このとき艇が風で流され、体が風上側に伸びきった姿勢で浮き上がったままストラップから足を抜いたため手が底にとどかず確保に失敗。太平洋へ波間をクルクル転がって離れていく艇をあきらめ、観光船に自分の位置を知らせるためパドル を立てて合図する。艇をなんとかしてもらいたいという下心もあったのだが、そのまま通り過ぎたのでパドル を握ったまま岸に向かう。

 

吹きつける風波で前を向くことができず、岸から20mぐらいで背泳しているところをツブ貝漁から帰った地元漁師のサッパに引き上げられる。その間20分ぐらいであったと思うが、まだ余力があると思いパドル を手放さずにいたのに、船着場から上陸した時には立っているのがやっと、救助してくれた山根氏に脇を支えられながら軽トラックに乗り込み、自宅の風呂に入れさせていただいても、しばらくは会話自体がつらい状態だった。

 

なんとか「蘇生」して風呂から上がり、山根氏が船着場に戻って作業しているというのであらためてお詫びにいったところ、すっかりあきらめていた艇を重茂漁協の漁場監視船が回収し、海上保安庁にとどけたらしいと教えてくれる。さっそく出向いて事情を説明したところ、大型連休にむけた「海の安全キャンペーン」初日ということもあってか多くの職員が出勤しており、艇を流出したらすぐに連絡するよう指導を受けた。そのさい瞬間20m/秒は吹いていたと無謀を問われたが、たぶん沈したした後だったと思う。艇を引き取って重茂漁協へお礼にまわった。

 

装備:

*艇:ハイデン製モロカイスキー

*パドル :ブラチャⅣ(スプーン)

*PFD:なし(荒れた時の再上艇のしやすさを優先して身につけていなかった)

*衣類:マーシャスSCSロングパンツ(ハイカット)/ファイントラックのフラッドラッシュ/パタゴニア のパドリングジャケット/5mネオプレン製ソックス

*携帯電話(ウェストバックに)

*パドル リーシュ(パドル 側につけていなかった)

*腕時計(コンパス・気圧計付き)

 

要因:

*荒波による艇の流出しか念頭になくパドル リーシュを使っていなかった。

*サーフスキーが強風で簡単に転がりだした時の知識・想像力に欠けていた。

*当日一番の難所だった姉ヶ崎を回り込んだことで気が緩んでいた。

*パドリング時の快適さを優先し上半身がが軽装だった。

 

[今回の経験から学んだこと]

❶海でパドルリーシュは必携

❷海水温に見合った衣類を選択しPFDを着用する(今回はPFDを着けていたら陸に近づくことするできなかったと思うが漂流を考えれば必携)

❸携帯電話は体に身につける

❹艇に連絡先を書いておき、すぐに海上保安庁に連絡する

❺陸までわずかであっても余力の判断が鈍るまえに救助を要請する

❻艇を漂流した場合を考慮し、自分の現海域を考える。「限界域」は海況の変化、経験、漕力、装備に応じてつねに設定しなおされるべきもので、単独での(逆に複数でも)経験がなければ下限を十分に低くとり「漕ぎ出さない」「逃げ帰る」判断が必要。

❼強風下では足を抜く前にストラップをつかむ等、艇確保の練習をしておく。

❽上記②、③はセルフレスキュー以前のバックアップであり、緊急時に連絡手段が使えないでは限界域を十分低くする。「自己責任」としてのセルフレスキュー、グループレスキューは、その技術の高さよりも、それぞれの力量にあった限界域をしっかり設定できるかが重要。

 

経験を積んだプロであっても、海という場で遭難の「確率」を常にゼロに近い状態で保ってきたわけではないと思います。「1/一生に漕ぎ出す回数」程度の経験はあるのではないでしょうか。最後のバックアップである「公」の救助を受けるために必要なスキルを標準化し、その限界とあわせて啓蒙することはプロ、アマを問わず先にはじめたものの責務と考えます。

 

[独断的単独考」

野川さんや柴田さんの三陸ツアーでも定番となっている焼き鳥屋の店主の後輩だというゴトー氏が、10年前にニンバスのホライゾン2艇を車載して家族旅行に来た時に載せてもらったのがシーカヤックを始めるきっかけ。翌月には同氏の世話で中古のパフィンを入手しました。技術や知識の取得はしっかりしたプロを介した方が「早い、確実、安全」なわけですが、身近に教えてくれる人などなく、解説書を買ってみてもあまり理解できないまま、自転車と同じように体で覚えていくしかないとわりきって、ゴトー氏から受けた注意を反芻しながら怖々と地元の海で漕いでいました。

 

いっしょに漕げる仲間がいなかったため必然的に単独行。当時は携帯電話のような連絡手段をもたなかったこともあり「板子一枚下は地獄」の恐怖から漕ぎ出すのが億劫になりがちでしたが、体とパドル、艇を一体化して漕ぎ進む心地よさが忘れられず海に出るということを繰り返しているうちに、海にひとり身を曝け出している恐怖から五感が研ぎすまされてくる「快感」を求めるようになっていきました。

 

それは子供のころに父親がウニやアワビの漁に使っていたサッパで外海に出たり、高校からはじめた山歩きで魑魅魍魎の気配から顔を出すこともできずに寝袋でじっと夜明けを待った時に感じていた畏怖と同質であり、ついでに言えば山女・山男に転向したシーカヤッカーがいないと言われるのは山の奥まで林道がつき伐採によりモザイクにされた山に「霊」がいなくなったことにも一因があるような気がします。

 

風のなかを仲間と漕ぐ心地よさ、レースで波を掴まえながら競う爽快感と「ランナーズハイ」、太古から変わらない岩肌や手つかずの植生を眺めながらの野営道具を積み込んだ旅、荒れた海で波と体・パドル・艇がひとつになったときの境地・・・などなど、それぞれ魅力的ですが、海への畏怖がその魅力を増幅し、他では味わえないものにしてるのではないでしょうか。

 

ひとり海に浮かび「絡み合った偶然の結果の必然」として今そこにいる不思議を思うと、いろいろなシステムに守られて日々暮らし、死を追いやっていた自分が動物としての感覚を麻痺させられていること、地球上ではどんな生物も生きていることにおいて対等だということを体得でき、岩のような無機物にさえも通り過ぎていった生物やそこに手を合わせた人と自分をつなぐものがあるような気がして、その存在自体に「ありがたさ」を感じます。

 

海は挑戦する相手ではなく「場」であって、対峙すべきは自分自身、場の変化と自分との間合いはかって「逃げ道」をつねに更新しながら漕ぎ、限界域になったら逃げ帰るという経験を積むことで「域」を底上げしていこうと思っています。

 

Profile 生還者No09 加藤昭一

1957年生まれ。岩手県田老町在住

始めてのパドリングは小5で父から教わったサッパ漕ぎ。十数年前にファルトをもらい近くの川でカヌー初体験。その後,佐賀部まで漕ぎ出すがあまりの恐怖に逃げ帰る。翌年、隣村が始めたリバーカヤック講習を受講。さらに翌年、ゴトー氏によるシーカヤックの洗礼。自艇入手。さらに翌年、避暑がてら宮古市の休暇村で仕事をしていた野川さんの艇をひとめぼれしてノードカップを即買い。このころ魚への「仲間意識」から釣りを辞める。宮古のシーカヤックマラソンに参加してレースに興味をもち、一昨年サーフスキーを入手。「あきらめたらそこで終わり」という師匠の言葉を胸に挑戦中。 

 

 

*「口開け」の日に朝漕ぎしていたご褒美